2015年11月1日@一橋大学【満州での集団自決】(3)

戦争体験

(→part2より続く)

Kさんの開拓生活は、はじめのうちは平穏であったようだ。

開拓の土地は、政府が現地人から安く買い上げられた。人手については現地の苦力(クーリー)を雇う形で労働力を確保した。本人の言葉によると、当時の満州は仕事にあぶれた若者が多く、苦力頭というカシラに頼むと、すぐに何人でも手配してもらえたそうだ。

講演会では、いかに満州の地が肥沃でたくさんの野菜が取れるということを示したプロパガンダ写真を見せられた。実際のところ、この写真は現地人の作る野菜を買い集めて撮ったイカサマ写真であったとのことだ。

このようのものを見せられて、満州に夢を感じて渡ってきた日本人も多かったに違いない。

そして意外なことに、現地人との関係は決して悪くはなかったようなのだ。Kさんは現地人の家族に招かれ歓待を受けた話などをされた。こうしたことは色々な理由が考えられるが、結局のところは、日本人が入ってきたことによって仕事と金が入ってきたわけだし、それほど害はないどころか、治安もある程度保たれ匪賊などに怯えることもなく過ごせたからではないだろうか?

この土地の人間はおそらくだが、元々中央政府への帰属意識などは少なく、自分たちの家と生活が保たれれば為政者が誰であろうとさほどの関心はなかったのではないか?しかもこの土地は中央政府どころか軍閥やら匪賊やらロシア人、おそらく遊牧民なども入って来て生活を脅かしていく地域であるから、むしろ中央政府よりも統制の取れた新しい満州国に期待を人も少なからずいたのではないか。

さて、Kさんたち村の一行73名はちょうど終戦の一年前の1944年8月に入植した。穫り入れなどが終わらないうちに終戦を迎えてしまったわけで、なんともタイミングが良くない。

そして、終戦は彼らにとっては平和が訪れることを意味していなかった。訪れたのは想像を絶する困難と恐怖であった。

まず、今まで平和的に共存していた現地人、特に苦力たちは敗戦とともに態度が豹変し、乱暴狼藉を働くようになった。

ちなみにこの事実については司会者の女子学生が畳み掛けるように質問していたが、当のKさんにとっては答えることが難しかったようで、しばしの間沈黙が続いた。それもそのはずで、Kさんは事実を伝えるのが精一杯で、学者のように分析的な意見を求められても仕方がないのだ。いささか無神経な質問に会場が少しこわばった。

とにかく、支配者が敗退し、何をしても許される無法地帯になった途端、有り余ったエネルギーが破壊と暴力へ向かったということだろう。表面的には仲が良かったとしても、鬱憤を感じることも多かったには違いない。

ちょっと連想したのが「太陽の帝国」という映画で、開戦時の上海租界でイギリス人家族に仕えていた中国人の家政婦が日本軍の侵攻とともに態度が豹変し、略奪したり子供を殴ったりした場面だ。ただもちろんこの場合はそんな生易しいものではなく、身包み剥がれた上に惨殺されるという有様だったようだ。

そんな状況であったからKさんの村の人々も着の身着のまま逃げることしか出来なかった。そしてついに、ある程度村から離れた頃、この村のリーダー格が、村民全員で集団自決することを決断した。財産も食料もなく、守ってくれる兵隊もいない、周囲には血に飢えた暴徒しかいない、そういう状況だ。他には飢えて死ぬか、なぶり殺されるかの選択肢しかないという中での苦渋の決断だ。

ところがここで問題となったのは、その方法だ。刃物や武器などは一切持っていない。残されたただ一つの方法はお互いに首を絞め合うというやりかただ。

順番としては、子供と老人が先に手を下された。つまり力の弱い順だ。そして残った者も次々にお互いに絞殺していった。

最後にはKさんともう一人が残った。

だがここで問題が起きた。二人のうち一人が相手を絞め殺せば、一人だけ生き残ってしまうのだ。

草原のど真ん中で近くに首を吊れるような木もなく、途方に暮れたらしい。そして思いついたのが、そこらに落ちている石をもってお互いに打ち殺すという、凄惨な方法だ。

ふたりはその方法を試みるも目的を遂げることが出来ず、負傷し気を失ってしまった。そして数十人の村人の死骸とともに一夜を過ごすことになった。

その後意識が戻ると、なんと村人の衣服が何者かによってすべて剥ぎ取られていた。おそらく暴徒がハイエナのごとくタカって持ち去って行ったのだろう。生き残った二人も同様、下着を除いてすべてを奪われてしまった。

この二人はその後、幸運にも懇意にしていた苦力頭にかくまわれる事になる。苦力頭の一家に顛末をすべてを話すと、一家のものが激しく泣き出してしまったという。食事と衣服があてがわれ、ふたりは生命をつなぐことが出来た。ただし、もう一方の人は祖国へ帰ることなく病死してしまったようだ。Kさんもすぐに帰国することはままならず、中国軍の仕事についたりして食いつなぎ、数年間大陸で過ごしてからやっと帰国することが出来た。

お互いに首を絞め合う70余名の村人、石で殴り合って刺し違えようとする 生き残りの二人・・・これは想像を絶する凄惨な場面であったに違いない。

しかしこれは事実であり、それを直接経験している人間が現に生存している。

決して映画や小説の世界ではないということだ。

もしKさんが生き延びなかったら・・・この事件は誰にも知られずに葬られたのは確実だ。

そして、誰も語る人がいなく闇に葬られてしまったこのような事件は他にもあったに違いない。

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