2015年11月1日@一橋大学【満州での集団自決】(2)

戦争体験

さて、この講演会のメインテーマは、戦時中の満州で起きた凄惨な出来事とその背景についての諸々の事柄である。

それ以前の問題として、そもそもなぜ満州に大量の日本人入植者と軍人がいたのか?という疑問を解かなければ釈然としない。

満州は言うまでもなく中国(当時の清国および中華民国)の一部である。もちろん外国の領土であり、そこに日本の軍隊が駐在していたという事実にはそれなりの背景がある。

19世紀末の清はすでに西欧列強から無残な浸食を受けていたが、日本は国内事情に忙殺されその波には乗ることはなかった。しかし日清戦争および日露戦争がその状況が一変した。日本は日清戦争に勝利し、遼東半島の割譲を勝ち取ったが、三国干渉により放棄せざるを得なくなった。そして清は三国干渉の当事者のロシアに対して、見返りとして満州鉄道の敷設権とさらに旅順と大連の租借を認めた。

そして日本は日露戦争に勝利すると、それらの特権をそのまま引き継ぐことになり、このことにより大陸進出への足がかりになる都市と港を得た。さらに沿線沿いの都市開発、工業化、農地の開拓が進められた。だが、ここまではある程度は法的な効力の範囲内での行動だ。

決定的だったのが柳条湖事件、いわゆる満州事変。日本軍がこの地方の支配を確固としたものにするため、謀略を図り、一気に沿線沿いの都市を皮切りに、のちの「満州国」の領土になる部分を軍事的に支配してしまった。もともとこのエリアは中国政府の支配力が弱く、地方軍閥が跋扈していたり、事実上ソ連の支配下にあったような地域もあり「無政府状態」に近い実態であったようだ(法的には中華民国の領土だから無主の地ではない)。支配力の弱まった他国の中に「国」を作ってしまったのが満州国。それは表向きは皇帝の末裔などを擁した現地人主体の建国の形を取ったが、実質的には巧妙に組まれた軍国主義日本の「傀儡国家」であるのはもちろんのことだ。

こうなると、以前よりも積極的かつ大量に開拓移民が入り、現地人より土地を安く買い上げる形でどんどん開拓範囲を拡大していった。その多くは日本政府の巧みなキャンペーンによって日本中の農村からかき集められた開拓民だ。駐屯する兵隊も相当の勢いで増えていったであろう。

こうして、日本人のための街作りと農工業の整備が進められ、実質的な植民地が形作られていく。ここでは日本人入植者や軍人が我が物顔で歩き回っているし、日本と変わりのない日本人だけの都市もある。これがKさんの体験の舞台となる。

(→part3に続く)

 

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